内田カヲルの作品が面白いのは、「男女」、「受け攻め」のステレオタイプ化した振り分けをぶっ壊してしまったところにある。体毛だらけのオッサンがなぜ、「受け」として成立するのか?それを腐的に解説していこう。
BLが面白いのは「攻め」と「受け」が、社会的にもベッドのうえでも「男」と「女」にきっちりと割り振られている現実の社会とは違って、その関係が複雑に揺らいでいるところである。
BLが面白いのは「攻め」と「受け」が、社会的にもベッドのうえでも「男」と「女」にきっちりと割り振られている現実の社会とは違って、その関係が複雑に揺らいでいるところである。
内田さんの本領は年下攻めだが、その年の差は半端じゃない。
『それではみなさん。』に出てくる末っ子の北斗なんて、14歳の中学2年生なのに、受けのおっさんはガテンの30歳。生意気ながらも精一杯受けを守ろうとする北斗が可愛い。もしもおっさんが、年上の「女」だったら、どう思うかなぁ? そもそもガテンの女なんて、想像できないけど(笑)。
北斗は、背伸びしながらも、立派な「漢(オトコ)」であるというミスマッチに好感がもてるが、内田さんの描く受けは、たいていはとてつもなく意地悪である。
『飴と鞭』では、年下の学生の攻めが、おっさん先生を翻弄する。そのさまは、まさしく鬼畜といっていい。社会的には強い立場であるはずのごつい先生が、いとも簡単に振り回され、ベッドのうえでは泣かされている(というか、学校のトイレや保健室、校内でのプレイで、ちゃんとしたベッドシーンすらない)。
表面的にみれば校内で遠隔バイブ操作など、男性向けポルノでありがちな女教師調教プレイの構図とまったく同じである。
しかし、プレイや構図が似通っていても、内田さんの物語が男性むけポルノと徹底的に異なっているのは、おっさんがいじめられるのは、「女」という性別をも持つからではなく、「かわいい」からと理由であるいう点にある。
男性向けポルノでは、女は肉体的快楽によって堕ちていき、男は女を引きずりおろすことよって快楽を得る(ことになっている)。
しかしこの物語では、先生の受けは、生徒の攻めとのあいだの関係を、拒否することができる。
いくら強姦された弱みを握られていても、男にとって強姦は女のようには傷にはならないからである(男でありながら、男に関係を強要されていたという意味においては、確かに弱い立場であるかもしれないが、そのときは強要した男を自分とともに、引きずりおろすことができる。男を強姦する男は、女を強姦する男とは違って、ホモフォビアから来る嘲笑にさらされるからである)。
受けが攻めとの関係を容認するのは、攻めのことが好きだからであり、好きだという気持ちこそが肉体的快楽に繋がっている。
受けは、攻めを主体的に受けいれるという選択が行っている。男性向けポルノで女が快楽によって男を受け入れる瞬間は、男の勝利であり、女の敗北である。
しかしBLにおいて受けが攻めを受けいれる瞬間は、愛のシーンである。
受けがかわいいからこそ、攻めが受けをいじめ、それを受けが受け入れることによって、調教的関係における陵辱の意味は変化させられている。かわいい調教の物語は、快楽の物語でありながら、愛の物語でもあるのである。
紹介者プロフィール:桃園あかり腐っていることを周囲に隠していないカミングアウト済み貴腐人。しかし流石に、子どもからはBLをどう隠すかが最近の懸念。職業は、意外にまじめなプロフェッサ?。思うより職場のスーツ率が、低くて悲しい。
コメント1
匿名1番さん(1/1)
出だしが重複しとります。