1
06/16
愛し合うと死ぬ!?オメガバースに続く○○バースまとめ
BLニュースは標準ブラウザ非対応となりました。Google Chromeなど別のブラウザからご覧ください。
2020/01/03 15:49
なんてことを学生時代に、授業の最中に、ペンを握りつぶしてしまうほど興奮した経験はありますか。
筆者はあります。
勿論日本の歴史カップリング(妄想)も小説やゲームを通して履修していたが、中国文学や歴史の授業中に雷に打たれたような衝撃で悟った瞬間は、多分一生忘れません…よね?(チラッ
日本でもいろんなメディアの影響で、三国志などのBLカップリングはよく知られているが、実は他にもいろいろと中国腐女子が想いを馳せる(妄想)カップリングがいるので、一番有名なエピソードを取り上げながら紹介したいと思います。
※8割妄想であることをお許しください。
※歴史人物は基本結婚してますので、気になる方はここでブラウザバックしてくださいね!
家庭が裕福ではないものの、衛青(えい せい)の姉、衛子夫(えい しふ)は武帝の寵姫であり、騎射の名手でした。匈奴征伐の際に車騎将軍に任命され、多大な功績を挙げて大将軍にまで出世し、武帝の姉である平陽公主を妻としました。
(テレビドラマ『大漢天子』から)
しかしその後、甥である霍去病(かく きょへい)が台頭し、一時譲ることになって、衛青はそれ以降冷遇されると思いきや、霍は若く他界されてしまい、軍隊のトップは依然として衛青でした。
ちょうど霍が台頭していた十数年の間に、後宮は一人の子どもも生まれていませんでした。武帝は34~50歳、衛青は30~46歳。特に武帝は青壮年という一番子を授かる時期なのに、後宮から音沙汰が一切なかったそうです。
衛青が亡くなるまでに何をしたのか。《西京雜記》によると、「漢朝輿駕祠甘泉汾陰備千乘萬騎。太仆執轡。 大將軍陪乘名為大駕。(漢の時は、皇帝がどこかに出かけても、「大駕」を使い、車馬を管轄する太僕はくつわをもち、大將軍は一緒に乗車するものである)」で、武帝晩年はお外に出かけまくってたそうで、この記載が正しければ、大将軍衛青はきっと一緒に乗車していました。これは若い頃叶わなかったハネムーンですよね…
武帝の年号は、6年に一度サイクルしますが、元封五年に衛青が無くなった後、このサイクルが4年に一度になりました。それは元封五年以降、○○五年という年を二度と見たくないかもしれません。
こんな2人ですが、最後の最後まで「君」と「臣」ではあるものの、武帝の皇陵(お墓)から北東1kmのところに、衛青が埋葬されていました。西漢の皇后陵は、一般的に皇陵の東にあると言われています。
ではここで一曲、テレビドラマ《大漢天子》から「千百年後誰還記得誰(千年後きっと私を忘れてしまうだろう)」。
日本でも有名な白楽天、中国文学では元稹(げんしん)と良く名前を並んでいます。2人は唐において代表的な詩人であり、作風や文学に対する理念が近いことから「元白体」という文学形式を作りました。
2人は年が近く、試判抜萃科に及第した同期で、共に校書郎を授けられました。中国の詩人によくある、及第→官吏になる→左遷される→失意、という道をそれぞれ経験していました。良く似た二人はとにかく大量な詩と手紙を交換し合い、40作以上を後世に残しています。
たとえばもっとも有名な白楽天の「与元微之書」(元稹、字微之)とは、元稹に次ぎ、遠く離れた南の地に左遷された白楽天が元稹に三年も会ってなく、二年間も手紙をもらってないため、その悲しみと怒りを記された手紙です。
中では元稹への思念を「まして膠と漆のように強く結ばれた心を持ち、胡越の土地に身を置き、進んで君に会うことは出来ず、退いて互いを忘れ去ることも不可能、惹かれつつ引き離されて、それぞれ白髪頭になろうとしている。」と書かれていました。
さらに「与元微之書」の後半では、白楽天が左遷され、さらに遠くに行ってしまったことを知った元稹が書いた詩「聞楽天授江州司馬」への返答として、こう記されています。「此の詩は他人であっても聞いていられないだろう、まして僕の心では、なおさらである!今に至るまで、詩を吟じるたびに、いぜんとして寂寞の情が湧いてくるのだ。」
(映画『空海―KU-KAI―美しき王妃の謎』から)
少年の頃から一緒に勉強し、お酒を飲み、月見をし、遊び暮れ、共に成長した。成人になって政治や文学の領域では功績を挙げるが、左遷によって離ればなれになり、孤独な死を迎える。
一生を共に歩み、遠く離れてもお互いを想う2人は、中国語では「知己」、つまり自分のように自分のことを知っているぐらい親しい関係を持っています。詩や手紙の中では、お互いの生活と思いが繊細に書かれており、読み解きながら、これでもかと思うほど相手を大事にしているのが分かります。
北宋の初代皇帝、趙匡胤(ちょう きょういん)と南唐(唐が滅亡したあとの五代十国時代に江南に割拠した国)国主、李煜(り いく)の前半生は関りが一切なく、後半生は、趙匡胤による宋の建国、南唐の亡国から人生が交差し始める。
歴史上では2人とも愛する妻が存在しており、割とドライな関係でしたが、史実を沿って言えば、囚わる現任皇帝と捕虜の亡国皇帝。
ひとりは武力に長けて心身とも強いが、反乱を乗じて自ら皇帝だと宣言し建国した彼は、統治の正当性がありませんでした。その一方ひとりは文才に長けて軟弱でありながら、唐の李氏であり、賢明な皇帝として民に愛された正統な国主でした。様々な対比かとギャップから葛藤や関係性、李煜が捕虜になる前となった後に書いた詞から趙に出会えた後の心境など、腐女子は萌えを見出します。
特にテレビドラマ『君に問ふ:能く幾多の愁ひ有りや。』ではイケメン俳優が出演、そして野史によるシナリオ改変で趙と李の間はさらに物語(妄想)が膨らみました。
コメント2
匿名2番さん(1/1)
武帝×霍去病は某有名歴史小説家の短編で見たことある。うん。
匿名1番さん(1/1)
面白い記事ありがとうございます!
紹介いただいた動画もその目線で見るととても良かったです。
惜しむらくは、霍が姪(正しくは甥では?)など間違いと思われる記述、てにをはが読みにくい部分が少しありましたので、アップ前にダブルチェックされると良いかもしれませんね。
これからも面白い記事楽しみにしています^_^