師匠・山九亭初助の死を知らされた森野要こと山九亭感謝。その胸の内に、一枚の座布団の上で常に話芸の極みを目指し別世界を繰り広げ続けた誇り高い落語家への想いが去来する…。噺家は一生涯の全てを自分の芸の肥やしにするものだと、学ばせてくれたのも師匠だった。たとえそれが情愛でも、別れでも…。
噺家森野要が師匠初助(うぶすけ)の葬儀の知らせをうけ、師匠を回想するところから、この物語が始まります。
自動車販売店の営業だった森野要が、仕事をさぼるためにふらりと入って聞いた初助の江戸噺。すっかり噺にほれこんで無理矢理弟子入りした要の視点でストーリーがすすみますが、これはすべて初助の物語です。
厳しいだけの師匠のようですが、少しずつ初助の人となりが見えてきたら、すばらしく魅力的な人物に見えてきます。噺家という特殊なキャラクターではありますが、男好きという奇をてらったように思える人物背景も、彼の孤高の人物像を引き立てます。
要が、兄弟子の寒也といい仲になってくっついてしまいますが、これも師匠の孤独な生い立ちや人柄を語るためのエピソードでしかありません。
自分の中の、嫉妬する女の気持ちを磨くために、自分を抱く弟子の寒也を要に譲ったと、舞台の初助の話芸を聞いて理解したとき、初助の芸に対する恐るべき探求心に、畏怖を抱きます。
自分にも弟子にも厳しく、話芸を極みを目指して孤高の人生を歩む初助。噺家でありながら、宴会で捨て身の芸をした要が、師匠にしかられる場面でも、
「たかが金のために、何を売ったか、いずれ高いつけになって必ず自分に返ってくる」
と言われ要だけでなく読者にも投げかけられるその厳しい言葉に、背筋が伸びるような気がします。
読後、師匠の人となりを知ってもう一度読み返したら、師匠の寂しさ、人恋しくてつい男を誘惑してしまう師匠の悲しさがにじみ出て・・要視点の師匠の話にどっぷりとひきこまれてしまいます。
続編「花扇」では、初助師匠視点のお話です。母の愛もしらず、父の愛もしらないで育った初助、師匠の人格形成にこういう事実が深く関わるのかと納得します。現実の辛い出来事を、芸の肥やしにして飲み込んでいく初助の強さは、死ぬとき畳一枚あればいいと言い切る潔さでもあります。
人情話と共に描かれる、魅力的な男初助の一生。これは木原音瀬「箱の中」「檻の外」にならぶ文学作品です。絶版で書店ではすでに手に入らなくなっていますが、剛しいら先生自ら同人誌として再版してくださっていますので、機会があれば是非一度読んでみて頂きたいと思います。
紹介者プロフィール:はる木原音瀬、榎田尤利の小説をこよなく愛するお年頃の主婦。運動不足解消を目指すべく犬の散歩にせっせと歩いているが、考えているのはBLの事。 精神的な痛みが伝わる描写に激しくもだえる“精神的”鬼畜な性格。バッドエンド、死別、カップルになれないまますれ違って終わる作品がもっとあってもいいじゃないか!とハッピーエンドオンリーのBL界に憂いを密かに抱く。六青みつみの自己犠牲の受け、真瀬もとの痛さも大好物。